富山市岩瀬・森家土蔵

旧森家住宅は、平成6年12月27日に国重要文化財の指定を受けています。重文に指定されているのは、主屋と土蔵3棟です。当時は、米蔵、肥料蔵もあったのですが、現在では現存していません。現存している主屋は、明治6年の大火の後、同11年に建設されたと伝え、南北2棟の土蔵も同時期の建設と推定されています。主屋は正面の構えや各室の構成・意匠がよく整っており、通り土間に面したオイと呼ばれる広い部屋の構造・意匠に特徴があり、囲炉裏が切られていて、吹き抜けの梁、差物、帯戸の豪壮な構成は目を見張るものがあります。奥座敷のトコは、二間三尺幅のものであり、表構えはむくりのついたコケラ葺きの庇にスムシコ、スモシコの下には馬繋ぎの環がつけられています。南北の土蔵は、漆喰の鏝絵等にみるべきものがあり、当時の海商の典型的な住宅の様式を残しています。 土蔵の外壁には鷹などが描かれている。扉が開いているのでわからないが、扉の表にも鏝絵が描かれているのかもしれない。明治初期に建造された国指定重要文化財森家、2か所の土蔵の扉と土蔵の外壁に施されている。手前は虎、むこうは波と龍、上部に家紋。 国重要文化財 旧森家住宅 富山市岩瀬・森家土蔵
image - 富山市岩瀬・森家土蔵 - 旧森家住宅は、富山市東岩瀬大町通りにあります。 岩瀬町は神通川の川港を背に港町宿場町として発展したところで、北前船で栄えた古い町並みを今に残しているところです。 北前船廻船問屋森家は、代々四十物屋(あいものや)仙右衛門を世襲してきた船持ちの肥料問屋でした。 明治以降は、名字を森としているとのことです。 旧森家住宅は、平成6年12月27日に国重要文化財の指定を受けています。重文に指定されているのは、主屋と土蔵3棟です。 当時は、米蔵、肥料蔵もあったのですが、現在では現存していません。 現存している主屋は、明治6年の大火の後、同11年に建設されたと伝え、南北2棟の土蔵も同時期の建設と推定されています。 主屋は正面の構えや各室の構成・意匠がよく整っており、通り土間に面したオイと呼ばれる広い部屋の構造・意匠に特徴があり、囲炉裏が切られていて、吹き抜けの梁、差物、帯戸の豪壮な構成は目を見張るものがあります。 奥座敷のトコは、二間三尺幅のものであり、表構えはむくりのついたコケラ葺きの庇にスムシコ、スモシコの下には馬繋ぎの環がつけられています。 南北の土蔵は、漆喰の鏝絵等にみるべきものがあり、当時の海商の典型的な住宅の様式を残しています。 旧森家住宅は、富山県の江戸時代以来の民家建築の構造・意匠を引き継ぎ完成した県内を代表する優れた意匠の町家として貴重な文化財です。 この森家は、幕末から明治時代にかけて、北前船による交易により栄えていました。 北前船とは、江戸時代から明治時代にかけて活躍した主に買積み廻船の名称です。買積み廻船とは商品を預かって運送するのではなく、航行する船主自体が商品を買い、それを売買することで利益を上げる廻船のことを指します。 囲炉端には船の模型がありました 囲炉端には船の模型がありました 当初は近江商人が主導権を握っていましたが、後に船主が主体となって貿易を行うようになったようです。 北前船は、上りでは対馬海流を遡って、北陸以北の日本海沿岸諸港から関門海峡を経て瀬戸内海を通り、大坂に向かう航路(下りはこの逆)及び、この航路を行きかいました。 西廻り航路の通称でも知られ、航路は後に蝦夷地(北海道・樺太)にまで延長されています。 近畿地方への水運を利用した物流・人流ルートには、古代から瀬戸内海を経由するものの他に、若狭湾で陸揚げして、琵琶湖を経由して淀川水系で大坂に至る内陸水運ルートも利用されていました。 この内陸水運ルートには、日本海側の若狭湾以北からの物流の他に、若狭湾以西から対馬海流に乗って来る物流も接続していた。特に、朝鮮半島からは、海流の無い瀬戸内海を経由するより対馬海流に乗った方が早く畿内に到達できるため軍事的にも重要でした。 この内陸水運ルート沿いの京都に室町幕府が開かれ、再び畿内が日本の中心地となった室町時代以降は、若狭湾以北からの物流では内陸水運ルートが主流となっていました。 江戸時代になると、例年70,000石以上の米を大阪で換金していた加賀藩が、寛永16年(1639年)に兵庫の北風家の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送るようになりました。これは、在地の流通業者を繋ぐ形の内陸水運ルートでは、大津などでの米差し引き料の関係で割高であったことから、中間マージンを下げるためであったと思われます。 囲炉裏の梁は井形で吹き抜けになっています また、外海での船の難破などのリスクを含めたとしても、内陸水運ルートに比べて米の損失が少なかったことも理由でしょう。 さらに、戦国大名がその領地を一円支配するようになり資本集中が起き、その大資本を背景に大型船を用いた国際貿易を行っていたところに、江戸幕府が鎖国政策を持ち込んで、海外への渡航が原則禁止されたため、大型船を用いた流通ノウハウが国内流通に向かい、対馬海流に抗した航路開拓に至ったと考えられる。 一方、寛文12年(1672年)には、江戸幕府も当時天領であった出羽の米を大坂まで効率よく大量輸送するべく河村瑞賢に命じたこともこの航路の起こりとされています。前年の東廻り航路の開通と合わせて西廻り航路の完成で大坂市場は天下の台所として発展し、北前船の発展にも繋がったと言えます。 明治時代にスクーナー(Schooner)などの西洋式帆船が登場すると、年に3航海から4航海が可能となったとされています。それまでは、年にせいぜい1往復しかできなかったのです。 また松前藩の入港制限が撤廃されたので航海数が増加しています。もっとも船舶自体は弁才船か、それに西洋帆船の特徴を併せた合の子船が主流でした。 しかし、明治維新による封建制の崩壊や電信・郵便の登場は相場の地域的な格差が無くなり、利鞘を稼ぐのは難しくなったようです。さらに日本全国に鉄道が敷設されることで国内の輸送は鉄道にシフトしていき、北前船は役目をほぼ終えて歴史の表舞台から姿を消しました。 北国方面への下り荷に関しては、蝦夷地の人々への日常生活品(酒類・飲食品類・衣服用品・煙草)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)・蝋燭(原産地は瀬戸内)米・酒などが輸送されていました。 上り荷(畿内方面へ)は殆どが海産物で下り荷ほど種類は多くなかったようです。 鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯などが輸送されていました。 特に昆布は大坂から薩摩を経て中国にまで密輸出されていたのです。 富山県では北前船からの昆布の輸入が多く、現在でも昆布の消費量が極めて多いのはこの名残です。 北前船の往来は周辺地域に大きな影響を与えています。一つは周辺農村の生産力の増加です。 積荷のなかには冬の間の農閑期を利用した副業によるものもあり、それらの需要が高まるにつれ、商品が優先的効率的に生産されるようになりました。 もう一つは造船基地の発生という点で、港地が船修理、船建造の作事を任されるようになり、これらのことが周辺地域にも流通面を超えた影響を及ぼしたと思われます。 国重要文化財 旧森家住宅
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