熊谷染めの歴史

江戸時代には、藍染めや草木染め(紅花)などの天然染料で染められていたのですが、到底庶民には手が出せないものでした。しかし、明治の開国で化学染料が日本に入ってきてから、染物文化は庶民にも定着してきたのです。

安政年間(1854年から1860年頃)には細かな紋様の「江戸小紋」の技法が、大正期には「友禅染」の技法が採り入れられるなど、創意工夫が重ねられ洗練されたものが『熊谷染』となりました。贅沢が禁止されていた江戸時代、和服の裏地として隠れたおしゃれを楽しんでいました。また、武士の裃(かみしも)にも用いられていたようです。

江戸小紋は遠目でみると一見無地に見えるのですが、小さい紋様でとっても可愛らしく繊細な柄です!友禅染(型友禅・手描き友禅)は、多彩な色を使いとても華麗な印象を受けます。染物と水は切っても切れない関係です。市内を流れる星川を代表とする豊かな荒川の支川、さらに湧水も多くあることが熊谷で染色を盛んにした大きな理由の1つです。熊谷は良質な水がたくさんあったんです。高城神社を中心に100軒近くの染色工場があった時代もあったんです。

熊谷の染色関係の年表によると昭和26年に熊谷捺染協同組合が設立され、昭和36年に解散している。そしてその昭和36年に熊谷染作品展示会、 及び第1回小紋秋冬向見本市が開催されている。従ってこの頃、初めて「熊谷染」という名称が使われ出したのであろう。それには景気衰退により解散のやむなきに至った業界が翌昭和37年熊谷捺染振興協同組合を設立するに際し、何かそれなりの名称を付して染物を売り出そうという企画のもとに「熊谷染」という名称が付されたようである。この設立の際の役員及び組合員は約13名であった。続いて昭和39年には行田繊維工場試験場の協力のもとに熊谷捺染技術研究会を発足させている。この2者は共に綿密な関係にあり現在までその組織は継続している。現在、埼玉県伝統的手工芸品に指定を受けている「熊谷染」は友禅と小紋を指している。(埼玉県民俗工芸調査報告書 第8集より抜粋)

熊谷染は、型紙を使い(または手描きで)美しい模様を染め出す模様染の一種で、美しい色を使って自由模様を染め出す友禅染と、同じ仲間です。もともと熊谷の染色の歴史は古く、藍染めが盛んだった中世までさかのぼるといわれています。安政年間(1854~60年)のころには細かな紋様が特徴の「江戸小紋」の技法を、大正期には「友禅染」の技法を採り入れるなど、創意工夫が重ねられ洗練されたものが熊谷染です。

熊谷には京都や加賀で有名な「友禅」と江戸時代に確立された「更紗」「小紋」の伝統技術を持った職人がおります。この三つの染めをあわせて「熊谷染」と呼んでおります。熊谷染の特徴は、絹織物(白生地)に小紋・友禅等の染色加工製品です。小紋と友禅は埼玉県の伝統的手工芸品に指定されております。

染物には、大きく分けて、浸染・捺染の2つの種類があります。浸染(しんぜん)とは、水で染料を溶かした液体の中に糸や布地をまるごと浸して染める方法で、主に無地染めや絞り染めがこれにあたります。捺染(なっせん)とは、布地や製品等に糊で溶かした染料や顔料を印捺(プリント)して模様を現す染色方法で、熊谷染めや江戸小紋(えどこもん)が代表的です。糊で溶かすことによって、粘り気がでて、隣の色と混ざらないんです。

伝統工芸 熊谷染
熊谷は古くから埼玉県の県北における、政治、経済、文化の中心都市。平たん地で気候も温暖、良質の水にも恵まれて、かつては製紙、製粉、木工、酒造、染色など、多くの地場産業が存在しました。熊谷染は、奈良時代に山まゆ、麻などの植物の繊維を用いた織物が盛んになり、大陸文化の影響を受けて、これらの織物に染色を施すようになったのが始まりです。水が豊富にわき出す星川を中心に染色業者が多く、かつては友禅流しの風景が見られました。今では川で布をさらすことはなくなりましたが、その卓越した職人の技は、大切に受け継がれています。

伝統工芸 熊谷染
明治・大正期には200軒を超える染め物工場がひしめいたという熊谷。その後、着物の需要衰退に伴い数軒にまで激減した厳しい状況の中でまさに孤軍奮闘、荒川と利根川に挟まれた扇状地の先端に位置する熊谷は、その豊かな伏流水の恵を受けて古くから染め物業が発展。養蚕と絹織物の盛んな北関東、江戸に近い宿場町という好立地から、武士の裃に用いられた正絹の江戸小紋を中心に反物づくりが栄えたと言われています。かつては東京・荒川で代々続く染物屋を営んできた染谷家がこの地に移り住んだのは、染谷政示社長の先々代にあたる祖父の時代だったそうです。

世の中の人々に支えられてこその伝統工芸
「ひとことで熊谷染と言っても、私たち染屋の仕事は一番下流にあるもの。その前に型紙の和紙を漉く職人、型紙を彫る職人、絹を織る職人がいて初めて成り立つんです」という染谷社長が無造作に取り出したスクラップファイルには、人間業とは思えない微細な図柄が彫られた和紙の型紙がぎっしりと詰まっています。「たとえば数ミリ間隔の単純な格子図柄ひとつとっても、よじれがこないように2枚重ねした和紙の間に等間隔で細い糸が通してあるんです。実は以前、機械で同じような型紙を作ってみたんですよ。でも、機械だと正確すぎて目がチカチカしてしまう。いわば人間にしかできない“神業”ですね。、こする、実際、これを彫った職人も糸を通した職人も人間国宝に指定されています。文化財としての価値だけで言えば数億円はくだらないでしょう」。それほど貴重な型紙を今も“道具”として使い続けている染谷社長。人間国宝に指定された件の職人たちが次々と他界し、大切なパートナーを失いつつある現在はまさに「上流がせき止められた状態」と苦笑いしながらも、染谷社長ならではの哲学で熊谷染の未来を模索しているのも事実です。
「人間国宝が何人も集まって作るからすごい、というものではないと思うんです。正絹の反物で作る着物は確かに高価ですが、それに見合う良さが必ずあるはず。もともと日本人にとっての着物は日常着なんですから、良いものは軽くて温かくて着崩れもしない。成人式や卒業式などで初めて身につける着物が機械染めのポリエステルでもいいんですが(笑)、そこで『着物は窮屈で着崩れするもの』という印象を持たれては困りますね。本物の良さを知ってもらう“入り口”をどう提供していくかが私たちの課題だと思っています。本当にアピールしたいのは熊谷染でなく着物の良さなんですよ」。保護される伝統工芸よりも世の中に支えられる伝統工芸をめざす染谷社長。その職人魂こそが、熊谷の大きな財産と言えるかも知れません。正絹の下生地に日本独特のワビ・サビを醸す色彩が染め抜かれた独特の熊谷染。江戸小紋に代表される微細な文様も大きな特色です。


▲ページTOPに戻る